黒い魔女

私は看板を外に置き、ひと呼吸する。
「さぁ、今日も頑張りますか」
アンティークショップ『ガルド』。それが私の店の名前だ。
手作りのアクセサリーや羽箒、ちょっとしたハーブなどを販売している。
こう見えて美大出身のデザイナーなので、デザインには自信があるのだ。
もちろん大人気とは行かないけど、私は私の好きなことで稼げているこの生活がとても気に入っていた。
カランと音を立て、とあるお客様が来店する。
その人はモデルのようにすらりとしていて、整った顔立ちをしていた。
服装も清潔感があり、私服だというのにまるで雑誌から抜け出てきたような感じだった。
(素敵…でも、私なんかじゃ釣り合わないか)
「いらっしゃいませ」
私はにこやかに挨拶する。
彼は私のほうをちらと見ると、軽く会釈をして商品を眺めてった。
それからアロマオイルを幾つか手に取り、香りを確かめるように顔を近づける。
(香水とかつけないのかしら?意外ー)
なんて失礼なことを考える。
しかしそんなことを考えながらも、私は彼が真剣に選んでいる姿を見ていた。
「何かお探しですか?」
あまりにも長いこと悩んでいるようだったので、つい声をかけてしまった。
すると彼は驚いた表情を浮かべた後、「いえ……」と言って視線を逸らす。
そしてまたしばらく考えた後、ようやく口を開いた。
「あの、眠れる香りとかってありますか?」
「えぇ!ございますよ!」
予想外の質問に、私は思わずテンションが上がった。
彼のほうを見ると、少しだけ照れた様子だったが嫌そうな顔ではなかった。
(と言うか、この人女の人だわ)
よく見れば手足は細いし、目元はクマができていて疲れた印象を受ける。
きっと寝つきが悪いタイプなんだろうと思いながら、私はいくつかのオイルやフレーバーティを選んだ。彼女はそれらを楽しげに見つめる。
「こちらのハンドクリームはいかがでしょう?カモミールをベースにしてますから、リラックス効果が高いですよ」
「ふぅん…。試してみてもいいですか?」
「あ、はい、もちろん!私の使っているものでよろしければ」
そう言って私はポケットから自分のものを取り出した。
蓋を開ければ良い香りが広がる。
私はクリームをひとつまみすくい上げ、彼女の手に塗っていく。
ひんやりとした感覚がくすぐったかったのか、彼女がピクッと肩を動かしたのがわかった。
「はい、これでいいです。どうぞ使ってくださいね」
「あ…。ありがとう」
彼女は戸惑うような表情を見せたものの、すぐに笑顔でお礼を言う。
その顔を見て、私の中で何かがざわついた気がした。
それは不快なものではあったけれど、決して悪いものではなかった。
彼女は会計を終えると、ペコリとお辞儀をし店を後にした。
(名前くらいお聞きしておけばよかったかな?)
次に会ったときに声をかければいいだけの話だが、何故かそうしなければならないような気がしていた。
「……っといけない、もうこんな時間」
時計を見ると思ったより時間が経っていたようで、慌てて看板を中に入れる。
そしてドアの鍵をかけると、私も家路についた。
次の日、昨日の彼女と同じ時間に同じ人物が店を訪れた。
「いらっしゃいませ。昨日はよく眠れましたか?」
「はい、お陰様で」
彼女はにっこりと微笑む。
するとまた私の心臓が跳ねた。
「ぜんぶお一人でやられているんですか?」
「はい、製造からパッケージデザインまで、全てハンドメイドでやっています」
彼女は商品を手に取りじっくり眺める。
その姿はとても絵になっていて、いつまでも見ていたいと思った。
「あの…。もしよかったら…。この後お時間ありますか?」
「えっ?」
「お茶でも飲みませんか?」
突然の誘いに戸惑い、彼女は目を丸くする。
しかしやがて小さく笑うと、「喜んで」と言った。
それから私は彼女をお店のバックヤードへ案内する。
そこは休憩室になっており、テーブルにはお菓子やティーセットが置かれていた。
「適当に座っててください。今準備しますから」
「え、でも……」
「大丈夫ですよ。私がやりたいだけですから」
彼女は遠慮がちに椅子に腰掛ける。
私はそれを確認すると、急いで紅茶の準備をした。
本当はコーヒーのほうが良かったのだが、あいにく切らしているのを思い出したのだ。
「お待たせしました。アールグレイのミルクティです。それからこちらはマドレーヌ。口に合うといいのですけど」
「わざわざすみません」
「いえいえ、お気になさらずに」
そう言いながら私も向かい側の席につく。
「いただきます」と言ってカップに口をつける姿すら美しいと思う。
(あぁ……もっとお話ししたい)
しかしそれを邪魔するように、仕事用の電話が鳴る。
出たくない気持ちを抑え、私は立ち上がった。
「すみません、僕はもう行きますね」
「はい。お忙しいところお引止めして申し訳ありません」
「いいえ、とんでもない。夢のような時間を過ごしました」
そう言うと、彼女は優しく微笑んだ。
その顔を見た瞬間、私の理性がはじけ飛び、気づけば彼女の手を掴んでいた。
「あの、また来てくださりますよね?」
そう叫んでから、自分が何を言っているのか気づく。
これじゃまるで告白みたいじゃないか。
彼女はきょとんとした表情を浮かべていたが、やがてクスッと笑った。
「もちろん。また来させて頂きますよ」
そう言ってから、彼女はじっと私の目を見つめる。
吸い込まれそうなほど綺麗な瞳に、私は思わず息を呑んでいると、彼女ははっとしたように視線を逸らす。
「あ、ごめんなさい。つい見惚れてしまって」
その言葉を聞いて、私は心の底から嬉しくなった。
(ああ神様、色黒なのを恨んだこともありましたが、こんな幸せがあるならずっとこのままでいい!)
そんなことを思いながら、平静を取り繕って笑う。
「いえ、そんな……。それよりお名前を聞かせてもらってもいいですか?」
「僕ですか?僕の名は、駿河凛と言います」
「駿河さんですね。覚えました」
私はそう言って、名刺を取り出す。
「え?」
「私の連絡先です。いつでも気軽に相談してください」
「あ、ありがとう」
「それでは、また」そう言って彼女は店を出る。
彼女の姿が見えなくなってから、私はその場にしゃがみこんだ。
「これは運命に違いないわ。絶対落としてみせるんだから」
+++
「――つまり性欲と恋愛感情は区別することができるのです。本日の講義はここまで。出席票を提出して退室してください」
駿河が講義を終えて片付けをしていると、一人の男子生徒が駆け寄ってきた。
「先生。質問があるんすけどぉ」
「はい。何でしょう」
駿河が笑顔を向けると、生徒は下卑た笑みを浮かべた。
「俺、最近彼女ができたんだけど、その子めっちゃ束縛が激しくてさぁ。毎日連絡しないと怒るし、夜も電話しろってうるさいんだよねぇ。これって普通なのかな?あとさ……」
その後も続いた彼の愚痴に、駿河は丁寧に対応した。次第に彼も落ち着きを取り戻したようだったが、すでに1時間以上費やしていた。
(…まずいな。このままでは守谷さんと話す時間が…)
「神野くん。続きはまた今度に…」
「待って先生、あと最後にいっこ聞きたい」
そう言って彼は駿河の肘を掴んだ。
そして耳元で囁くように言ったのだ。
「先生にも性欲ってあんだよね?」
「ちょっ、神野く…」
駿河の制止を振り切り、強引にキスしてきた。
舌まで入れられそうになったところで、ようやく解放される。
「先生、自分の学生の顔くらい覚えないと。まだ俺が学生だと思ってんの?」
「やめなさい。男性の性欲なんて、所詮大したものではありません。自分の手で慰めていれば充分のはずです」
「へぇ、そうなんすか?でも俺は違うな。女抱かないと眠れないタイプかも」
「それは性欲と愛着衝動を混同しているからで…」
そう言いながら彼の手から逃れようとするが、所詮女性である駿河の力では敵わない。
すると、不意に背後から神野に抱きしめられた。
「ねぇ、いいじゃん。しようよ、先生」
「何を馬鹿なこと言っているんですか!離しなさい!」
駿河が抵抗しても、彼はビクともしない。それどころかさらに強く抱き締めてくる。
「大丈夫だって。優しくするからさ?」
そう言って今度は首筋に唇を寄せてきた。
そのまま舐められ、吸われる感触に、背筋にゾクリとしたものが走る。
「……っ、やめてくだ……さい」
必死に抵抗するが、力が入らない。
そのままソファに押し倒され、スラックスとパンツを脱がされる。駿河の真っ黒な陰毛が露になった。
「へー、ホントに女だったんだね。じゃあ遠慮なくヤらせてもらうね」
「ま、待ちなさ……」
神野は駿河の両足を抱え上げると、一気に貫いた。
「うぐぅッ!!」
あまりの質量の大きさと痛みに、駿河の目に涙が滲む。
「やっぱキツ……。でもすげー締まる」
「こ、こういう事は男同士でやりなさいっ!」
「ハハハ、先生も男みたいなもんじゃん」
そう言うと、ゆっくりと抽送を始めた。
最初は苦しかったが、だんだんと慣れてきて、快感が生まれ始める。
「いっ、ひぃ」
「あれ?先生も感じてるんじゃん」
「あ…あのね!敏感な場所に挿れられれば誰だって…」
「へぇ、そうかなぁ?」
神野の息遣いはどんどん激しくなり、腰の動きも速くなってきた。
「ああ、先生の中最高だよ。俺もうイきそう」
「ちょ、ま……」
「中に出すよ」
その言葉に、駿河は青ざめる。
「や、やめなさいっ!それだけは許しませんよ!?」
「大丈夫大丈夫、どうせデキないって」
「そういう問題ではっ……」
だが、駿河の言葉は最後まで続かなかった。
神野は駿河の中に欲望を吐き出すと、満足そうな表情を浮かべてズルリと引き抜いたからだ。
「あ~気持ちよかった。先生ありがと」
満足そうな笑みでそう言う神野の下で、駿河が低い声で呟く。
「…君は俺を怒らせた」
「えっ?」
「本来ならば教師として、学生の性的欲求にも大人の対応をしなければならないと思ったが…こんなものがセックスだと思っているなら、僕が教育し直さなければならないようだな」
そう言って立ち上がった駿河は、机の上にあった羽箒を手に取った。
「ちょ、先生……何するつもり?」
「神野くん、分かるかな?セックスは「力」ではないんだよ。今から君に本当の『大人』を教えてあげよう。大丈夫、心配はいらないよ。君はただ、快楽に身を委ねてくれればいいんだから」
にこりと笑い、神野に覆い被さる駿河。
その日以降、神野の性癖がぐしゃぐしゃに歪められたのは言うまでもなかった。
+++
「再教育」を終えた駿河は、額に張り付いた髪を拭った。その仕草は、まるで映画のワンシーンのように様になっている。
「少し汗をかいてしまったな…。いけない、もうこんな時間だ!守谷さんが待っている!」
そう言って急いで帰り支度を始める駿河。
先程までの色気はどこへ行ったのか。
駿河は研究室を飛び出し、ガルドへ走った。
+++
世間はもう帰宅ラッシュのなか、駿河は息を切らせて店へ向かう。
店のドアは空いていたが、本人の姿がない。慌ててスマホのメッセージを確認するが、特に連絡はない。
すると店の奥から鋭い金属を削るような音が聞こえ、駿河は恐る恐る覗き込む。
アトリエで早苗が真剣な顔つきでアクセサリーを作っていた。
駿河に気づいた早苗は手を止め、微笑みかける。
「駿河さん、いらっしゃい。すみません、気付かなくて」
「あ、あの。お店のドア、開いてましたよ。大丈夫ですか?」
「ええ。うちの商品に盗むほど価値のあるものなんてありませんし」
そう言って出来たばかりのブローチを駿河に手渡す。
「わぁ、素敵ですね」
「ありがとうございます。それで、今日はどうしたんですか?」
「あっ、そうです!これ……」
そう言って、紙袋を差し出す。中には紅茶の茶葉が入っていた。
「いつも美味しいお茶を入れてくださるので、そのお礼にと…桃の香りがするルイボスティーだそうです」
「まぁ!わざわざありがとうございます。高かったでしょう?」
「いえいえ!福袋の景品なので気にしないでください!守谷さんに似合う香りだと思ったので…」
まるで口説かれているかのような駿河の言葉に、早苗は心をときめかせた。
「それでも、嬉しいです!ありがとうございます!外、暑かったですか?」
駿河の汗ばむ首筋を見て、早苗は心配そうに顔を寄せる。
「え、ええ。実はちょっと運動を……」
ばつが悪そうに視線を逸らす。早苗は彼の首筋に残る赤い痕を見つけ、それが何かを理解した。
「な、なるほど。運動は大切ですよね」
ウブな早苗は、自分の顔が赤くなっているのを自覚しながらも駿河の話に合わせた。
「私もたまにジムに通っています」
「そうなんですか!だからそんなにお綺麗なんですね」
「またまた、お上手なんだから」
本気にしてはいけないと思いつつ、弄ばれてもいいと思ってしまう自分がいることに、早苗は内心驚いていた。
+++
「まあ、学者さんなんですか。では駿河先生とお呼びしなくては」
「そんな、大層なものではないです。ただのオタクみたいなもので」
早苗は駿河のことをすっかり気に入ったらしく、あれやこれやと質問攻めにしている。
「職業病なのか、人と会うとつい相手を分析してしまって…」
「駿河さんになら、お金を払ってでも分析して欲しいという方が沢山いらっしゃるでしょうね」
「そっ、それはどうでしょうか……」
褒められ慣れていない駿河は、困ったように頭を掻いた。
「それで、私のことはどのように映っているのかしら?」
「そうですね…。作品の丁寧な造りから、真面目な印象を受けます。そして常識に囚われない感性。あと、実はすこし孤独ではないでしょうか?作品を本当に理解してくれる人を無意識に求めているように思います。でもその感情は今はほとんど封じている。そういったコンプレックスから、いつしか大人しい女性と言われるようになった……」
「………」
駿河は早苗の瞳をじっと覗き込んだ。全てを見透かされているような気分になり、思わず目を逸らす。
「って、僕なんかが偉そうなことを言って申し訳ないです」
そう言って頭を下げる駿河。
早苗は全身の力が抜けたように椅子にもたれかかった。
「ふぅ……駿河先生、あなたは恐ろしい人だわ、私が心の底に隠していたことまで言い当ててしまうんですもの。こんな風に言われたら、誰でも好きになってしまうわ」
真っ赤に火照った顔を扇ぎながら、早苗はつい要らないことまで口走ってしまう。あっと口を抑えたときにはもう遅かった。
「わ、私は駿河さんのことが好きだと言ったつもりはなかったのですけれど」
早苗の動揺は明らかだった。
(ああ、もっと時間を掛けて落とすつもりだったのに!わ、私のバカ…)
「大丈夫ですよ、分かってます。あくまで一般的にという話ですよね?」
「えっ?」
早苗の爆弾発言にもびくともしない駿河。この駿河凛という人間は、人の心理は掴めるくせに、実は女心には人一倍鈍感なのであった。
「ああ…は、はい」
「はい。僕もあなたが好きです。いつも素敵な時間をありがとうございます」
「ど、どういたしまして…?」
駿河が時計を見れば、時刻はもう21時であった。
「ああ、大変だ。こんな夜遅くまであなたを付き合わせてしまった。どうしましょう、送りましょうか?」
「い、いえ、大丈夫です。近いですから」
「あなたと話していると、なんだか時間があっという間です。あと……とても落ち着きます。守谷さんって、魔女みたいだ」
「それは………どういう意味でしょうか………?」
駿河は早苗の問い掛けを無視して、「また来週」と言い残し、店を出て行った。
早苗は暫く立ち尽くしていたが、やがて力尽きたかのようにソファに倒れ込む。
孤独な魔女は、こうして恋の呪いに掛かってしまったのである。
+++
駿河は「若年性更年期障害」という病気を患っている。
正確にはこれは「更年期障害」ではなく、副腎皮質ホルモンの分泌の機能が低下する病気なのだが、更年期障害と全く同じ症状が出ることからそう呼ばれているのだ。
そのために、普段の生活にはかなり神経を使わなくてはならない。
当然無理は禁物だし、カフェインも摂りすぎてはいけない。お酒も厳禁である。
そしてコルチゾール枯渇の影響で血糖値コントロールの機能が衰えるために、糖質は卵胞期に少しだけ、あとは全てケトジェニックという食生活を余儀なくされていた。
サプリやプロテインも常に携帯しており、症状がひどい時はステロイド剤を打つこともあった。
当然ピルでエストロゲンの分泌も抑えねばならず、こんな事ならいっそ男性ホルモン投与を始めたほうがラクなのではと思う事が多々あった。
(ピルは血栓症のリスクがあるし、やはり男性ホルモンを打つべきか…?)
しかし駿河自身、毎日ヒゲ剃りをしたり、加齢臭や肥満や生え際の後退に悩むのは本意ではない。男性らしい振る舞いをすることは好きだが、オッサンになりたい訳ではないのだ。
すでに自明のことであるが、駿河はトランスジェンダーである。自身の乳房や子宮は切除したいと思っているが、かと言って男性に変化したい訳ではなかった。
そして恋愛対象も女性である。幼少期は男性に恋心を抱いたこともあるような気がしたが、それは今思えば愛情や友愛、尊敬や憧れのような感情であり、或いは己が女性であることから来る防衛本能のようなものであった。
それゆえに、駿河はその生涯のほとんどを孤独に過ごした。たまにボランティア活動をしたり、バンドを組んだり、女の子を家に泊めることはあっても、大抵は一人きりだ。
恋人はおろか友人すら居らず、まして家族など望むべくもない。
自分はこのまま一生、普通の人とは違う人生を歩み続ける事になるのだろうか? そう思うと、駿河は寂しくて悲しくなる事がある。
そんな時に出会ったのが守谷早苗だった。
まさに自分の理想を具現化したかのような存在。初めて会った瞬間から愛さずにはいられなかった。
もっと話したい。もっと触れたい。
そんな欲望が湧き上がるのに時間はかからなかった。
駿河は生まれて初めて、恋に落ちたのだった。
彼女の為なら何でもしてあげたいし、彼女の為に生きたいとさえ思った。
彼女の為なら、きっとどんな事でも出来るだろう。
+++
駿河は己の欲望を音楽にぶつける事でしか満たすことができない性質である。
だが早苗に恋をしてからは、彼女の為に曲を書くことで幸せを感じる事ができるようになった。
早苗は駿河にとってまさに奇跡そのものだった。
駿河にとって早苗は人生そのものであり、生きる意味であり、そして欲望の捌け口でもあった。
駿河はギターを手に取ると、いつものようにメロディを紡いでいく。
だが、今日の音色はどこか違っていた。それはきっと早苗への愛で満たされているからだろう。
音楽に心を込めると、自然と身体が動くものだ。
ひとしきり弾き終え顔を上げると、いつの間にか早苗が目の前にいた。
「も、守谷さんっ!?い、いつからそこに!?」
がたりと立ち上がって自らのギターを抱き締める。思い切り「愛してる」だとか「あなたが欲しい」だとか歌い上げてしまったのだ。聞かれていたとしたら恥ずかしくて死んでしまう。
「駿河さんの歌声も素敵でしたよ。やっぱり歌上手ですね。私、聞き惚れちゃいました」
「あ、ありがとうございます。でも、よくここが分かりましたね?」
「実は、駿河さんが帰ってくる前に大学の構内にお邪魔していたんです。そこで偶然、駿河先生がここで歌っている所を見かけて……」
「そ、そうでしたか。ええと、あの、出来ればもうちょっと待っていて欲しかったといいますか」
「そうなんですか?じゃあ、これからはそうします」
「ありがとうございます」
すくっと立ち上がる駿河。その立ち振舞いは、まるで舞台の上に立つ役者のようであった。
早苗は内心ドキドキだった。恋の歌を歌う駿河の声があまりにも艶っぽかったからだ。
(あんな声で囁かれたりしたら、腰砕けになってしまいそう)
「……ところで、何か用があったんじゃないですか?」
早苗に用事などなかった。ただ駿河が恋しくて会いに来ただけだったのだ。
「いえ、特に無いですけど」
「そう、ですか」
しゅんとする駿河。その姿はまるで捨てられた子犬のようだ。
「ふふ、嘘ですよ。少しお話がしたいなと思って」
「本当、ですか?嬉しいなぁ!」
ぱあっと顔を輝かせる駿河。
彼はこの上なく嬉しそうだ。
「ここでは何ですし、うーん、あなたに似合うような場所がない。この大学は殺風景だから…」
駿河の言葉を聞きながら、きょろきょろと辺りを見回す早苗。
確かに、大学のキャンパスには緑が少なく、無機質だ。
「じゃあ、私の家へ来ませんか?ここから近いので」
「守谷さんのお宅へ、ですか……!?」
途端に緊張し始める駿河。
女性の家に上がり込むなど、彼女にとっては初めての経験である。
「はい。今日は両親とも仕事で居ないので、気兼ねしないでくださいね」
わざわざ二人っきりであることを強調されて、いよいよもって心臓の鼓動が激しくなる駿河。
「わ、わかりました!ではお言葉に甘えて」
こうして二人は並んで歩き始めたのだが―――。
+++
駿河が早苗の家に着いた時、時刻はすでに夕方になっていた。
空腹を訴える早苗の胃袋がぐうと音を立てるが、食事の準備をするよりも先に、まずはシャワーを浴びる事にした。汗を流してさっぱりした所で、わざと肌の透ける薄手のTシャツに着替え、下は下着だけという出で立ちで部屋へと戻る。
「……ッ!!」
それを見た駿河の喉がごくりと鳴った。
(この人はちょっと無防備過ぎるんじゃないのか!?僕のことは異性として見ていないのかもしれないけど、それにしたってこれは……)
早苗の肌は黒光りしていて艶かしく、張り出たバストとくびれたウエスト、そして太ももは真っ白なホットパンツから透けて見える。
「どうかしましたか?」
「あ、いや、その…」
「ふふ。変な人ですね。何か飲みますか?」
そう言って冷蔵庫を開ければ、パンツがギリギリ隠れるくらいの際どい丈のホットパンツに目が行ってしまう。
慌てて目を背け、別の事に集中しようとする。
早苗さんの家はさすがクリエーターなだけあって、様々な美術品や画集がたくさんある。それらは綺麗に整頓されていてとてもセンスが良い。
(なんか、別世界の人って感じだなあ)
駿河には美術の才がまるで無かった。心理学というものを研究している手前、そのような心理も一応詳しいが、それらは客観的な知識としてであって、彼自身は心を動かされるという事とはほとんど無縁である。
そんな駿河が一目惚れしたのだから、守谷早苗というのはまさに奇跡のような存在なのだ。
「お待たせしました。アルコールでも大丈夫ですか?」
「えっ?えーっと…」
駿河はアルコールにとても弱い。だが、守谷さんが「友達」として親睦を深めようとしてくれているのならば断るわけにもいかないだろう。
「はい、いただきます」
「良かった。じゃあ、私はお酒を注ぎますから、駿河さんもグラスを持って下さい」
「はい」
「乾杯」
カチンと小さな音をたててグラスを合わせると、そのまま口をつけた。
(うーん……。やっぱり苦手だなあ)
「どうですか?」
「あっはっはい!すごく美味しいですね!僕、友達とこうしてお酒を飲むの初めてなので、なんだか楽しいです!」
「私もです。いつもは両親が飲むので付き合っていたんですけど、たまにはこういうのも良いかもしれませんね」
そう言いながらも、彼女は手際良くつまみを作っていく。
「私、料理は好きなんですよね。誰かに食べてもらうのは初めてだけど」
「初めて」という単語だけで舞い上がってしまう自分がいることに、駿河はひどく恥ずかしくなる。
「さあ、食べてください」
意識しているだけで、何から何まで卑猥な発言に聞こえてしまうのだからひどい。
「ありがとうございます。では、頂きます」
彼女の作ってくれたものを口に運ぶ。それはどれも素朴で優しい味だった。
それから二人は他愛もない話をした。
趣味の話、学生時代の事、将来やりたいこと、お互いの家族についてなどなど。
気が付けば、時計の針は夜中の十二時を指していた。
「あらら、もうこんな時間なんですね」
「本当です。そろそろ帰らないといけませんね」
名残惜しそうな顔を見せる駿河を見て、早苗はくすりと笑う。
「泊まっていきますか?」
「と、とととととととまり!?いやそれはさすがにちょっと、あのでもえっと嫌とかそういうことではなく」
「ふふ、冗談ですよ。さっきからずっと緊張してましたよね」
「……すみません」
申し訳なさそうに肩を落とす駿河。
「いえ、謝ることじゃないですよ。他人の家って緊張しますよね。あ、そうだ。コーヒーでも入れましょうか」
「はい、お願いします」
マグカップにお湯を注ぐ音が部屋に響く。
ふと、背後に気配を感じて振り向くと、駿河がすぐそばに立っていた。
早苗は一瞬驚いたが、すぐに微笑んで見せた。
「何ですか?」
「守谷さん…」
彼の視線が早苗の体に注がれる。
その瞳に宿るのは、確かな情欲の色――。
駿河の手が肩に触れ、思いの外びくりとしてしまった。
「きゃっ、す、駿河さ…」
「あまり素肌を見せないようにね。夜は冷えますから」
それだけ言うと早苗の肩にそっとカーディガンを掛け、また優しい笑みを浮かべてソファへと戻って行く。
(あれ?今の雰囲気は一体……)
一瞬、勘違いしてしまいそうになった自分に赤面する早苗であった。
+++
この町は美大に近いからか、美術館やアートギャラリーが多く存在する。
東京のベッドタウンである一方、学生の遊び心にも寛容な町だ。
駿河と早苗は、とある美術館に行くためにバスに乗っていた。
早苗の尊敬する作家の展覧会があると知ったので、デートに誘ったのだ。
バスに乗り込むまでは良かったのだが、思いの外混み合っており、二人は密着して立つ事になった。
「大丈夫ですか?」
「はい……」
どうやら美大生の登校時間と重なってしまったらしく、バスの中はぎゅうぎゅう詰めになっていた。
なんとか早苗の体に触れないようにと努力するが、バスが揺れる度に早苗の方からぴたりとくっついて来るのだからたまらない。
(この人、わざとやってるんじゃないだろうな?)
そんな疑いを持つほどに、早苗の体は柔らかい。
早苗の吐息が耳にかかる度、駿河の心臓は大きく跳ね上がる。
(だめだ。このままだとどうにかなってしまいそうだ)
一方早苗も、駿河との距離感にドキドキしていた。
彼女は線が細く、色白だ。そして、いつも笑顔を絶やさない。早苗がどんなに大胆な行動に出ても、決して怒ったりしない。それどころか、少し困ったように笑ってくれる。
早苗にとってそれは初めての体験であり、もっと困らせたいという気持ちと、優しく甘えたいと思う気持ちがせめぎ合う。
「あの、もう少しだけ近寄っても良いですか?」
「!?!?!?」
駿河にしか聞こえないように、耳元で囁く。
駿河は驚きの表情を見せた後、真っ赤になって俯いてしまった。
それから早苗の耳元に顔を寄せて、囁き返す。
「…夜まで我慢して下さい」
「……っ!」
今度は早苗のほうが赤面する番だった。
(うぅ……。なんて破壊力だ)
二人とも限界ギリギリだったが、無事に目的地に到着する事ができた。
駿河にはあまり理解できなかったが、早苗はその作品群にいたく興奮し、最後まで大はしゃぎだった。駿河はその姿を時々カメラに納めながら、温かく見守った。
(連れてきてよかったなぁ)
「駿河さん、こんな、こんなに可愛いぬいぐるみが!私、思わず買ってしまいまして」
「僕が持ちますよ」
「だ、ダメです!ハネモゲラくんは、私がお世話するんです!」
どうやら買ったばかりのぬいぐるみに早速愛着を持っているようで、キノコのような生物のぬいぐるみをぎゅっと抱き締めて離そうとしない。
「僕はこの子の親にはなれないんですか?ふたりで世話をしましょうよ」
「えっ、でもそれじゃまるで…」
「…?」
早苗は恥ずかしそうに顔を背け、小さな声で呟いた。
「ふ、夫婦みたいじゃないですか」
その瞬間、駿河の脳内はショートした。
(クソッ…このぬいぐるみさえなければ…今すぐ抱き寄せて結婚を申し込んでやるのにっ…!)
駿河は笑顔を崩さないようにするのに必死で、あとの会話はまるで頭に入らなかった。
+++
荷物を預けた二人は、近くのイタリアンレストランで食事をした。
駿河は鶏肉のハーブ焼きを、早苗はスパゲティを食べた。
食事をしながらさきほどの絵画や美術の蘊蓄を語る早苗を、駿河は楽しそうに聞いていた。
駿河は虎視眈々と早苗を誘うタイミングを狙っていたが、どうしても今一歩踏み出せない。
早苗が自分を憎からず思っていることは分かっているが、彼女は少し天然なのか、無防備なところがある。それを誘惑だと勘違いしたら大変な事になる。
無論、全てわざとだということは、心理学者である駿河には薄々分かっているのだが、彼女に対する巨大な愛情と劣等感が駿河を奥手にさせてしまっていた。
食事を終えて外に出ると、雨が降っていた。
「すみません、傘を持ってくるのを忘れて……」
「いえ、私の方こそ。ごめんなさい、少し降るだけかなって思っちゃいまして……」
二人で申し訳なさそうに肩を落とす。
「あ、そうだ。僕の家に来てください」
「えっ!?」
駿河は早苗の手を取り、早足で歩き出した。
「ちょ、ちょっと待って下さい」
「嫌ですか?」
「嫌じゃないけど、突然過ぎます」
「大丈夫、着替えと傘をお貸しするだけですよ。それとも別の事もします?」
「な、何を言ってるんですか!!」
「冗談ですよ。僕が女の人を襲う訳無いでしょう?」
「そ、それはそうなんですけど……」
早苗の顔がみるみると赤く染まっていく。
「ほら、早く行きましょう。風邪引いてしまいます」
「わ、分かりましたから、手を…っ!」
駿河は早苗の言葉を無視して歩き続けた。
+++
「さあ、着きました。僕は先に入ります。それなら少しは安心でしょう?」
アパートに着く頃には、二人は下着までびしょ濡れになっていた。
「それとも、僕は外にいるので、着替え終わったら鍵を開けてください」
「そ、そんな事できるわけありません!駿河さんを閉め出すようなこと!」
「大丈夫、タオルもありますし、近くにコンビニもあります。それに、僕自身ちょっと自信がなくなってきましたから」
そう言うと駿河は早苗の胸元の透けたブラジャーを見て、視線を逸らす。
「す、駿河さんのえっち」
「すみません。そういう事なので、ゆっくりして下さい。これが鍵で、中からちゃんとかけてくださいね?」
そう言って鍵を押し付けると駿河は早苗を無理矢理部屋に押し込んで、ドアを閉めようとする。しかし早苗はその手を掴み、阻止した。
「ダメです!私、帰ります!だって、このままだと駿河さんの迷惑になるだけだもの……!」
暴れる早苗の腕を掴み、駿河は無理矢理部屋に連れ込んだ。そのまま壁に追いやると、低い声で言う。
「いい加減にして下さい。脱がないと言うのなら、無理矢理脱がせますよ」
「嫌、駿河さん、やめ…あっ……!」
早苗の叫びを他所に、駿河は早苗の服を脱がせていく。ブラジャーを剥ぎ取り、そして自分の着ていたシャツも脱ぎ捨てた。
「さあ、これが着替えです。……乱暴なことをしたのは謝ります。髪を乾かしたら、帰ってもらってかまいませんから」
駿河は早苗の裸を視界に入れないようにしながら、ドライヤーを手渡す。
早苗は胸を手で隠しながら、それを受け取った。
「ありがとうございます。でも、どうしてここまでしてくれるんですか?私、駿河さんに何も返せてない」
「そんなことはありません。むしろ、余計なお世話をしている自覚はあります」
「そんなこと…」
「この部屋を見てください」
駿河に言われ、彼女の部屋を見渡す。
彼女の部屋はとても殺風景だった。ベッドと机と本棚があるだけで、ポスターもカレンダーも、置物も、およそ駿河の趣味を表すようなものは何一つ無かった。
「僕が心理学の道を選んだ理由は、僕に『心』が無いからなんです。僕は他人を理解することができない。だから他人の心を研究しているんです」
「……」
「僕の両親は自閉症スペクトラム障害という病気なんです。これは簡単に言えば、コミュニケーション能力に欠けている人達の事を言うのですが」
「……はい」
「娘である僕もまた、異常を持っていました。生まれた時から、他人の気持ちが分からなかった。恋が分からなかった。何も共感することができなかった。自分だけインターネットのない社会で生きているような、大きな布で覆われているような、そんな孤独感がありました」
「…………」
「そんな時、僕はある人に出会いました。その人はとても優しくて、才能に溢れていて、魅力的で、僕は勘違いしてしまいそうなくらい、その人に惚れ込んでしまいました。彼女のすることひとつひとつが、僕の心を乱し、癒し、夢を与えてくれたのです。恋を知らない僕が、人を愛することを知った。これはいわば、その恩返しのようなものです。さ、早く着てください。…それとも、やっぱり、僕が気持ち悪い…ですか」
駿河の表情が曇る。
彼女はとても不安なのだ。自分がもし、早苗に嫌われたら、きっと自分は生きていけないだろう。
「違います!駿河さんのこと、嫌いになんてなりません!」
早苗は慌てて否定する。
「ただ、私は……」
「お願いします。…その先は言わないで」
駿河は早苗の唇を指で押さえる。
「駿河さん…」
彼女の目は潤み、今にも泣き出しそうだ。
「ごめんなさい。僕、変なこと言いましたね。………忘れて下さい」
彼女は寂しそうに微笑むと、後ろを向いてズボンを下ろした。
急に目の前に現れた彼女の尾骶骨を見て、早苗は息を飲む。
それはまるで芸術品のようだった。
「な、何してるんですか!?」
「僕、お風呂に入ってきます。一緒に入りますか?」
先程までの空気を変えようと、努めて剽軽に振る舞う駿河。しかし早苗は顔を赤くしただけで、何も答えられなかった。
「冗談ですよ。そんな顔しないで下さい。こっちが困ってしまいます」
駿河は早苗を一瞥もせず、浴室へと向かった。すれ違いざま、彼女は一言だけ呟いた。
「ごめんね」
早苗はその場に座り込む。
そして、膝を抱えながら涙を流した。
「どうしてこんなことするのよ……。期待させないでよ……」
+++
駿河は湯船に浸かりながら、今日のことを思い出していた。
「本当に何をやってるんだろうな、僕は……」
早苗を家に連れてきたのはいいものの、正直自分でもよく分からない行動だった。
早苗の透けた下着を見た瞬間、理性が吹き飛んだのだ。
誰にも見られたくないような、自分だけのものにしたいような、そんな醜態を晒してしまった。
「………はぁ」
(…守谷さんが僕のことが好きだなんて、そんな都合のいい話があるワケ無いじゃないか。なんたって、女同士なのだから)
ため息をついてから、一通り体を洗って浴室から出る。
(守谷さんはもう帰っただろうか)
タオルで身体を拭き、新しいシャツを着ると、リビングへと向かう。
駿河の淡い期待を嘲笑うかのように、そこに早苗の姿はなかった。
+++
それから駿河は何度かガルドを訪れた。しかし、会話は最低限しかなく、前のようにお茶に誘われることはなかった。
それについては寂しかったが、仕方ないと思い諦めた。そもそも、買い物を口実に顔を合わせてくれるだけ、嫌な顔一つせずにいてくれるだけ、駿河の心は救われた。
その日もガルドの扉を開けると、店内に見知った顔があった。
自分のゼミに所属している飯田一恵である。
(意外だな。手作り雑貨なんて柄じゃなさそうだが)
彼女は早苗にあれこれと質問しており、早苗はそれにひとつひとつ丁寧に対応していた。
そんな健気な姿を見るだけで、胸がきゅんとなる。
長いお喋りのあと、「ネットで買ったほうが安いから」と結局何も買わずに終わった。
「あれ?駿河先生じゃん!先生がこういうとこにいるの意外~」
「別にお洒落が目的じゃないよ。ここの香水は無添加だから使いやすいんだ」
「へー、駿河先生っぽい。あっそうだ、ねえ、今日暇ならこれから学祭の準備手伝ってよ」
もうすぐ駿河の大学では年に一度の学園祭が行われる。サークルや部活などは、この日に出店を出したりするのだが、当然駿河はそういったものには所属していない。
「自分達のお祭りの準備なんだから、自分達でやりなさい」
「ちぇっ。あ!もしかして、今年もリサイタルやるの?あれ、すごい楽しみなんだ~!」
「はは、ありがとう。でも今年は……」
「今年は?」
「いや、なんでもない。まあ暇があれば覗きに来てよ」
「もちもち!ひゃ~楽しみ♥じゃね~」
そう言って彼女は帰っていった。
駿河は石鹸をひとつ手に取ると、レジに向かう。
「367円です」
駿河は財布から小銭を取り出すと、早苗に差し出した。
お釣りを用意していると、駿河が申し訳なさそうにつぶやく。
「うちの学生がすみません…」
「いえ、全然大丈夫です。私、ああいう子好きなんですよ」
「…ふぅん?お試しだけして買わないのにですか」
駿河は口を尖らせて怒っているようだが、貴方も似たような真似をしたでしょう、という言葉は飲み込んだ。
お釣りを渡せば、会話は終了である。
「ありがとうございました」
駿河は商品を鞄にしまうと、寂しそうに笑って店を後にした。
+++
学園祭当日、早苗は大学に来ていた。
もちろん駿河から誘われたわけではない。
駿河のライブは中央ステージで12時かららしい。それまでどこで時間を潰そうかと考えていると、不意に早苗の名を呼ぶ声が聞こえた。
振り替えると、そこにはいつもよりお洒落な装いの駿河がいた。
走ってきたのか、肩で息をしている。
駿河はいつもより溌溂とした笑顔で言った。
「まさかこんな所で会えるなんて。お一人で来られたんですか?」
駿河は青いジレに、黒いジャケットという出で立ちだった。普段はラフな格好が多い彼女だが、今日はきちんと決めてきている。そのせいなのか、普段よりもっと大人びて見えてドキドキした。
「えっと、はい。駿河さんはステージですよね?」
「ええ、まあ。これのおかげで在籍できてるようなものなので」
自虐と自慢を同時にされ、早苗は苦笑するしかなかった。
「あの、もしかして迷ってますか?ずっとパンフレット見てましたけど…」
「あ、はい。どこかで少し休憩しようかなって」
「それなら、ここの校舎裏がお勧めです。崖になっていて、見晴らしが良いんですよ。いつもは解放されてないんですけど、今日は特別に入れるようになってます。ほら、あの建物の裏です」
食い気味に地図を指さして説明してくれる駿河。早苗の後ろから覆い被さるようにしているので、駿河の荒い息遣いが耳元にかかる。
「……ッ!……分かりました。行ってみます。ありがとうございます」
「いいえ。少しでも楽しんでいって下さい」
駿河はそのまままた急いで立ち去ってしまった。だが途中で大胆なコスプレをした女学生たちに捕まり、きゃあきゃあと持て囃されている。
そこには、胸の大きな飯田一恵も混じっていた。駿河は大きく開いた彼女の胸元を指差して何やら話している。
(……あの子とは、寝たことがあるのかな)
そう考えると胸が苦しくなった。
そんな自分が嫌になって、早苗はその場を離れた。
+++
早苗はあまり自分の容姿に自信がなかった。そのうえ引っ込み思案の世間知らずで、趣味も独特。周りに理解されることは少なく、世間一般の「ふつう」からはかけ離れていると思っていた。だからこそ卒業してすぐ、一人でできる雑貨屋を始めたくらいだ。
だから、自分は恋愛対象として見られることはないと諦めていたし、実際、恋が叶ったこともなかった。だから、恋心はたいてい自分の中に仕舞い込んで満足することが多かったのだ。
(でも、駿河さんは私のこと、可愛いって言ってくれて、それで……)
そこまで考えて、早苗は首を横に振った。
(だめ。告白すらさせてもらえないし)
今まで、こんなに人の気持ちが分からなくなったことなんてなかった。考えれば考えるほど、彼の真意が見えなくなる。
(どうせ私はただの店員だよ)
自分に言い聞かせても、胸騒ぎは一向に収まらなかった。
+++
駿河のライブは、早苗の想像以上だった。
ただでさえ色気のある人なのに、本気を出した彼はほんの少し目を合わせるだけで心臓が止まりそうなほどカッコよかった。
彼の艶やかな歌声は会場中の人を虜にした。と思えば、ロック調の曲では激しく歌い上げるし、女性らしい可愛らしい曲も難なく歌いこなした。
観客たちはうっとりと聞き惚れ、皆が彼女に酔いしれていた。
早苗はというと、自分の心臓の音で、周りの音が聞こえなくなりそうなほどだった。
ライブ終了後、早苗は興奮冷めやらぬ様子で会場を後にする。
本当は労ってあげようと思っていたのだが、ステージ裏で飯田とイチャイチャしているのを見て、つい逃げてしまったのだ。
早苗は足早に出口へ向かうと、駿河に見つからないようにそそくさと大学を出た。
活気のある通りなのに、なぜだか一人ぼっちの気分になる。
するとスマホが鳴った。駿河からのメッセージだ。
『今日の夜あいてますか?』
たった一言だが、早苗の心は羽のように舞い上がった。
『もちろんです!』
早苗は笑顔で返事を返す。
『今夜7時にガルドで』
+++
夜の6時、帰宅ついでのお客が増える時間だが、早苗は早々に看板を畳んだ。
そして7時、駿河がやってきた。駿河はステージ衣装のままだった。それは彼が今日こそ早苗に告白しようと言う決意の現れだったのだが、早苗はそれを知らない。
「守谷さん!会いたかった」
店に入ってくるなり、早苗は強く抱き締められる。彼の息からは微かなアルコール臭がした。
「…駿河さん、もしかして酔っ払ってます?」
「え?いやいや、たった一杯飲んだだけですよ」
駿河はなおも嬉しそうに早苗を抱き締める。早苗は心臓が飛び出しそうになりながらもなんとか引き剥がした。
「じゃ、じゃあ、もしかしてもうお食事されました?」
「そんな訳ないじゃないですか。あなたと食べるために、お腹ペコペコにして来たんですよ。それとも僕と食べるのは嫌?」
駿河は甘えた声で聞いてくる。早苗は、駿河は酔うと余計色っぽく、そしてめんどくさくなるんだな、と思う。
「嫌な訳ないじゃないですか。簡単なもので良ければお出ししますよ」
「うん。守谷さんの作るお菓子、大好き。守谷さんはもっと好き」
「あーあーあー、それは良かったです」
早苗は照れ隠しに適当に相槌を打ちながら、バックヤードへ向かう。
そこには予め用意しておいた様々な料理が並べられていた。
「うわぁ、なんて美味しそうなんだ。僕、もう我慢できません」
「どうぞ、召し上がってください」
駿河はそれらを美味しそうに頬張る。
そんな駿河を見て、早苗は密かに黒い笑みを浮かべた。
(駿河さん、”魔女”の本気を見せて差し上げますね)
今日作ったパイも、彼女好みの味にしたつもりだ。そして、「隠し味」も入れてある。
その「薬」を口にしたものはみな、私の虜になってくれるはずなのだ。
早苗は彼の一挙一動を見守った。
「美味しい!やっぱり守谷さんは料理上手だ。こんな料理を毎日食べていたらあっという間に太ってしまう」
「ふふっ、もしそうなったら私が責任持って貰ってあげますね」
「ええっ!?僕がもらわれるのかぁ、うーん…まぁいいかぁ」
モグモグと食べながら駿河はそれでも嬉しそうに頷く。
それからも食事は恙なく進み、二人は食事とワインを楽しんだ。
「そうだ、今日のライブ、どうでした?終わってすぐ探したのに、見当たらなくて。もしかして途中で帰ってしまったんじゃないかって」
「とんでもない、最初から最後まで見てましたよ!とっても素敵でした。抱かれたいって思っちゃいました」
「え?な、何ですって?」
「と言うのは冗談ですが、感動したのは本当です。特にラストのラブソングはあまりに切ない歌詞で、思わずうるっと来てしまって」
早苗は目を輝かせて語る。駿河は目線を落としてから、早苗を見据えて聞いた。
「…もし、あの曲の歌詞が、あなたに向けたものだったと言ったら、どう思われますか」
「ふぇ?」
「………守谷さん」
駿河の目つきが、いつもの柔らかなものから、真剣なそれに変わっていく。
早苗は胸がドキンと高鳴る。
駿河は彼女を立たせると、そのままソファに追い込んだ。
「守谷さん、僕は……!」
早苗は、ついにその時が来た、と思った。
「す、す、駿河さん、ちょっ、あっ、そんな、いきなり、やっ…」
駿河は早苗の首筋に顔を埋め、そのままぐったりともたれかかって来た。
しかし、待てども待てどもその先に進まない。
「………駿河さん?」
呼びかけても返事がない。
もしやと思い顔を覗き込んでみれば、駿河さんはすやすやと寝息を立てて眠っていた。
それもそのはずだ。今日は朝から大忙しだったうえ、お酒もたくさん飲んだのだから。
「…ごめんなさい、変なもの入れちゃって…」
そのまま駿河をソファの上に仰向けにして、唇にキスを落とす。
そしてシャツのボタンを全て外し、服をはだけさせた。
彼女の体はとても美しかった。
女性特有の丸みを帯びたラインに、柔らかそうな膨らみ。
そしてぽっこりと膨らんだ腹筋は、鍛え抜かれたアスリートのようだった。
早苗は我慢できずにそこに舌を這わせる。
すると彼女は小さく喘ぎ声をあげた。
「…んぅ♡」
何てエロティックなお声!!!
もっと聞きたいと思ったがぐっと堪え、服を脱いで駿河の上に寝そべった。
(そろそろ薬の効果が現れる時間だわ)
そしてそのまま彼女の目覚めを待った。
+++
数十分後、駿河は体の上に圧し掛かる重みで目が覚めた。
「あれ…?寝ちゃったのか」
目をこらすと、駿河の上には裸の早苗が寝ていた。
そして自分もなぜか素っ裸で、衣服があちこちに散乱していた。
………間違いない。情事の跡である。
駿河の顔がさあっと青くなった。
(うわぁ、やらかした~っ!!!!!!!!!!)
自分は酒に弱いのだと分かってはいたが、こんな間違いを犯すのは初めてだった。
しかも、いくら記憶を辿っても行為中の記憶が一切ないのだからなお悪い。
(僕、守谷さんになんてことをしてしまったんだろう……。まさか無理やり手籠めにするような真似は……)
その時、「ん……」という可愛らしい声で早苗が目を覚ました。
「もっ、守谷さん!」
「あ…駿河さん、おはようございます」
早苗はにへらと笑うと、ゆっくりと起き上がる。
「あ、あの、僕たち、昨夜一体何を……」
「何って……もしかして、覚えてないの……?」
早苗は精一杯切ない声で言う。
もちろん実際は何もなかったのだが、そこは”魔女”のプライドにかけても”あった”ことにしなければならないのだ。
「う、うん……実はそうなんだよ。僕、酔っ払っちゃって、迷惑かけてしまったみたいで……本当に申し訳ない」
「そうですか」
早苗は少し残念そうに呟いた。
「私、初めてだったんですが……責任取ってはくれないんですね」
「えっ、せ、責任!?」
「はい。初めての相手と添い遂げるように、両親から言われておりまして」
もちろんそんな古臭いことは言われていない。あとで両親と口裏を合わせなければ。
「そ、そんな…でも、それなら、仕方ありませんね………?」
「はい……仕方ないのです………」
早苗はほくそ笑むのを抑えるのに必死だった。
媚薬はじわじわと駿河の体に効き始めているはずだ。
早苗は駿河の腹に自分の秘部を押し付けるようにして抱きついた。
「駿河さん……」
「も、も、もりやさん……!!!今、それはちょっとヤバくてですね」
「あら、どうしてです?私のこと嫌いなんですか?」
「いや大好きですけど!そういう問題ではなく…じ、実はさっきから、その…」
彼の顔は淫らに歪んでいた。早苗はさも今気付いたかのように「ああ」と言って微笑んだ。
「生理現象ですよね?気にしないでください」
「え?き、気にしないでって………もしかして、さっきの料理に何か……」
「………さぁ、どう思います?」
早苗は腰をくねらせながら、さらに駿河を誘惑する。
駿河は自分の性器の真上から乗られているせいで、彼女の体の感触をダイレクトに感じてしまい、もう限界が近かった。
「はっ…やめ…」
「駿河さん。あなたがいけないんですよ?いつまでも私の気持ちに気づいてくださらないし。……だから、これは罰です」
「ちょ、ちょっと待って、ちょっと思ってたセックスと違う!も、守谷さん…まさかとは思いますが…この流れ、全部計算ですか…?」
「もう、分かってるくせに。あら?そう言えばあなたの講義に、こんな内容がありましたねぇ。『お菓子やパイなどの甘いものをたくさん食べると、数時間性欲が増強する』って。さっき駿河さん、デザートにたくさん食べてらっしゃいましたものね?」
それは駿河が女を悦ばせる時の常套手段なのだが、まさか自分がその罠にかかるとは思わなかった。まさに「策士策に溺れる」である。
「駿河さん……好き。あなたの全てが知りたいの。もう我慢できない……」
その台詞も、駿河が使おうと思っていた台詞なのだが!
そんな駿河の叫びも虚しく、結局早苗に押し切られ、一晩中愛し合う羽目になったのであった。
おまけに翌日は二人とも休みだったので、一日中ベッドの上で過ごされたとか。
その後、早苗は駿河を両親に紹介し、無事駿河を手に入れることができたと言うことである。
めでたしめでたし・・・。